どうも。
銀座在住プロリーマン)らーめんです。
今日は僕の自己紹介をさせてください。
超超超長いですが、
是非、最後までお付き合いください!
今では一般サラリーマンでありながら
銀座に住み、年収2,000万という
大手企業の役員並みのお金を稼いでる僕ですが
産まれてからネットビジネスに出会うまでは
” お金に振り回される人生 “
でした。
【幼少期〜小学生】
〜お金がなさすぎて辛すぎた〜
僕は1986年5月に
福岡県にて産声をあげました。
体重は約3,500gほど。
母が分娩台に乗ってから
5分で産まれてくる
とても親孝行な息子です(笑)
家族構成は
・父(タクシー運転手)
・母(父の稼ぎ少ないのでパート)
・兄(4つ上)
・僕
です。
超絶貧乏で所得がとても低く
都営の団地住まいでした。
(世帯所得が低い人などが住む住居)
どのくらい貧乏かというと
・水道
・ガス
・電気
が止まるのはしょっちゅうで
税金も払っていなかったのか
差し押さえの封書を
幼少期に何回も見ました。
一番最悪だったのは
父親が知らないうちに
知人の借金の保証人になっていて
その知人が行方不明になり
リアル893が家にあがりこんできたことです。
テレビのドラマで見るような
髪型、服装、口調の怖い人が
目の前で罵声を母に浴びせている姿は
今でも鮮明に覚えておりちょっとトラウマです。
(父はそのとき不在だった)
お金がないことで精神的にも生活的にも
いつも辛い思いをしてました。
そんな中でも母は
「教育には力を入れる!」
という大きな軸があり
親戚や知人に借金をしながらも
僕と兄を私立に通わせるべく
進学塾に入れてくれて
中学受験をすることができました。
そのおかげで僕も兄も
都内の私立の中学に合格。
ただ学費もバカにならないので
母は僕と兄が社会人になるまで
自分で洋服や化粧品を買うことも出来ず
「お母さんは女を捨てたからいいの!」
と言って自分を犠牲にして育ててくれました。
母には今でも頭が上がりません。
しかし!そんな中
先に合格をして中学校に通っていた
兄が癌を患いました。
僕がちょうど小学校5年で受験勉強を
しているときですね。
・生活費
・私立中学校の学費
・進学塾の費用
・医療費
などがただでさえ貧乏な家庭に
重くのしかかりこの時の家庭環境は最悪でした。
兄は若年性の癌で不安になるストレス。
母はつきっきりで兄を病院で看護しながら
自分の息子が亡くなるかもしれない不安な中で
僕を育てていかなきゃならないストレス。
父はその時、個人タクシーの試験を
受けるタイミングで息子が大変な中、
勉強をしなければならないストレス。
そんな状況だったので
夫婦喧嘩は絶えず、しょっちゅう僕が
喧嘩の仲裁に入っていました。
母は毎日のように
リビングでうつろになりながら
兄のことで不安になり涙を流していましたし
父はストレスから顔面麻痺になっていました。
お金があれば生活に関するストレスは
感じる必要もなかったですし、
兄はもっと良い病院で良い治療を受けられたんです。
そんな中で僕は
「なんでお金がない中で、
こんなに苦しまなきゃいけないんだ?」
「お金さえあれば
こんな苦しい思いをしなくていいのに!」
「世の中不平等だ!
なんで僕の家だけお金がないんだ!」
と思っていました。
この時期は多感な時期だったので
夫婦喧嘩を見るのも仲裁するのも嫌でしたし
兄が薬の副作用で髪の毛が全部抜けたりして
よわよわしくなっていく姿を見るのも嫌で
本当に辛かったですね。
それと同時に
「勉強して良い中学校に入って
絶対に将来お金もちになってやる!」
と強く思い、勉学に励みました。
【中学生〜大学生】
〜相変わらず貧乏だが楽しかった〜
辛い状況の中、反骨精神で頑張った結果
無事、私立の中高一貫の男子中学校に合格。
そして兄の癌も転移等なく快復しました。
お医者さんにもビックリされるほど
奇跡的だったみたいで親戚一同で
喜びをわかちあいました。
その時の母の色々な不安から生じる
負のオーラから解放されて安堵した顔は
今でも忘れられないですね。
しかし、入学した僕を待ち受けていたのは
辛い辛い現実でした。
それは
「圧・倒・的・貧・富・の・格・差」
わかっていたことですが
私立なので僕の周りはおぼっちゃまばかり。
・有名な競走馬の牧場経営者の息子
・政治家の息子
・プロスポーツ選手の息子
・芸能人の息子
・超有名企業役員の息子
・超一流ホテル総料理長の息子
・お医者さんの息子
などなど周りはお金持ちばかり。
僕の父親のタクシー運転手とは
対象的な職業の父を持つ友達ばかりでしたね。
特に印象的だったのは
「お年玉の金額」
でした。
冬休み明けて学校で久々に会うと
「お年玉いくらもらった?」
とかって会話になったりしますよね。
僕はこの時も相変わらず貧乏で
親戚もそんなにお金をもっていなかったので
お年玉の総額は
「1万円程度」
でした。
これが当たり前だと思っていた僕は
周りの友人のお年玉の額を聞いて
ビックリしました。
僕の友人のお年玉総額は
「平均で10万円」
でした(笑)
多い友達で最大30万くらいもいて
とてつもない貧富の差に衝撃を受けたことは
今でも忘れません。
「僕よりも学力も運動神経も笑いのセンスも
劣っているのになんでこんなにも違うんだ・・・」
と当時の僕はお金コンプレックスが
とても激しかったので些細なことですが
相当落ち込んだことを覚えています。
ただ、お金持ちといっても
普通の中学生なのは僕と変わらないので
「絶対にこいつらには負けない!
むしろ利用しまくってやる!」
という謎の反骨精神も芽生えてきました。
そのおかげもあって中学校では
・生徒会長に立候補し当選
・野球のシニアリーグで雑誌に載るほどの活躍
など他者よりも目立つことで
周りと比べたお金のコンプレックスを
心の中から消していました。
お金のコンプレックスは心の中から
消してはいたものの、中学3年の時には
僕が貧乏なことでいじめられたこともありました。
・貧乏だからクサイと謎に風潮される
・教科書を焼却炉に捨てられる
・体育の授業中テニスボールをぶつけられる
などなど。
多くの心優しく愛に溢れた友人にも恵まれた反面
このようなイジメを行うクソ野郎もいました。
当時、生徒会長をやるくらい知名度もあったので
色々な友人を巻き込み、
倍返ししてやりましたが(笑)
具体的には音楽部の友達に声をかけて
バンドを結成し、僕をいじめるやつに対しての
アンサーソング(悪口ソング)を作曲。
その後、レンタルスタジオに入り、
曲をMDに録音。
そのMDを放送部の友人に
「流したい曲あるからお願い!」
と言ってお昼休みに大音量で
校舎内に流しました。
そしたら先生が放送室に駆け込んできて
途中で曲はストップ。
もちろん犯人は僕だと特定され
人生で一番メタクソに怒られました(笑)
本当に聖職者か!?
と疑うほどの罵詈雑言の嵐と
愛のムチをもらいました(笑)
僕だってイジメられたのに
それを無視して僕だけあり得ないくらい
怒られて理不尽だ!と当時は思いましたが
今では、やりすぎたな・・・
と反省してます。。。
中高一貫高なのでそのままエスカレーターで
高校に進学しました。
ここでは中学から僕と同じように
エスカレーターであがってくる人に加えて
一般受験で入学してくる人もいます。
僕が行っていた私立は高校になると
異常なほどに偏差値が高くなるので
「頭がいい&お金持ち」
という僕がコンプレックスをいだきやすい
属性の人が集まってきます。
そのため
「そんじょそこらの生ぬるいおぼっちゃんたちに
負けたくない!」
という反骨精神がまた働きました。
当時は携帯電話が爆速的に普及した時代で
思春期の高校生からすれば持っているのが
当たり前という状態でした。
当然、同級生はみんな金持ちなので
携帯を所持していて
ませた友人たちは恋人と楽しく絵文字や
顔文字を使ってメールでいちゃついてました。
当然、友人たちは
自分自身で携帯代を払っているわけもなく
親に払ってもらうのが当たり前の世界でした。
自分の家が貧乏であることは認識しつつも
思春期の僕からすれば周りも持っているし
「自分も携帯が欲しいという」
思いは捨てきれませんでした。
ダメもとで母親に携帯を懇願するも
もちろん回答は
「そんなお金がうちにあるわけないでしょ」
と一蹴。
それでもどうしても諦めきれない僕は
校則違反と知りながらも
放課後に地元のスーパーでバイトすることを決意。
初めてのことだらけでしたが
必死に履歴書書いて、面接して
なんとか雇ってもらえました。
そして期待に胸を躍らせて
迎えた初の給料日。
貧乏な家庭なので
当然、中学からお小遣いなんて
もらっていなかったため
初めて手にした3万円は
とても輝いて見えました。
質素な茶封筒に入った給料袋を受け取った瞬間
なんだかズシンと重かった記憶があります。
当時、あまりにも嬉しすぎて
携帯電話のことを忘れて
イトーヨーカドーに向かい
初給料で感謝の意味もこめて
母親に口紅をプレゼントしました。
意図的ではなかったのですが、それが功を制し、
母親の機嫌を良くしたらしく、
自分で通話料を払うことを前提として
欲しかった携帯電話を契約してもらえました。
「急がば回れ」とは
まさにこのことかと納得しました(笑)
携帯を手に入れて意気揚々と
高校生活を過ごしていたところに
また「お金の苦難」が現われました。
高校二年生の春のことです。
僕の高校の生徒会は
高校2年生で組織されていて
春に生徒会選挙が行われます。
中学の頃に生徒会長をやっていたので
気になってはいましたが
辛いし、バイトもしていたし、
なにより当時付き合っていた彼女との
甘い時間を邪魔されたくなかったので
立候補はしませんでした。
しかし、当時のクラス担任が
生徒会の顧問で実績のある僕に
どうしても立候補してほしいという
リクエストを断りきれず立候補をしたら
2位と倍以上の得票差で当選してしまいました。
このことがのちのち、僕に訪れる
お金の苦難の原因となることを知らずに・・・。
生徒会というのは意外に忙しく
放課後に生徒会室に集まり
学校の運営やイベント企画について
夜遅くまで打ち合わせをします。
そうなるとどうなるか?
「バイトができない・・・」
そうです。
バイトができないんです。
バイトができないとどうなるかというと
お金が入ってこない
↓↓↓
携帯代払えない
↓↓↓
携帯が使えない
となるため死活問題でした。
当時、携帯が使えないとなると
みんなの話題についていけず
置いてけぼり感が出てしまうことと
彼女と連絡を取ることが出来なかったので
絶対に止めるわけにはいきませんが
結果、支払いが出来ず止まりました。。
当時3千円くらいの携帯料金でしたが
バイトもできない僕はお小遣いもないので
得るお金がなく払えませんでした。
家に支払い催促のハガキも届くので
親にもバレてしまい怒られました。
もう彼女とか学校生活以前に
これは借金なので払わなければなりません。
といっても生徒会の活動を
生徒会長である僕が止めるわけにもいかず
悩んで悩んで悩んで悩んだ結果・・・
「乞食になろう」
と決意しました。
当時、エコについて世の中的に
意識が高くなり始めた時期で
高校の校舎の各フロアに空き缶を入れると
中で裁断されて10円が返ってくる機械が
配置されていました。
そこに対して空き缶拾いをして
裁断しまくればお金になるので
これでお金を作ることにしました。
そう、まさに乞食です。
浮浪者の方がよく空き缶を集めて
自転車でウロウロしているの見たことありますよね?
あれって空き缶を引き取ってくれる業者がいて
その空き缶(ゴミ)がお金になるのです。
それと同じことすることにしたんです。
思い立ったが吉日ってことで
早速、自転車通学している生徒副会長に
「自転車貸して!」
とお願いして学校周辺をゴミ袋持って
ひたすら空き缶拾いをしてました。
近隣の方々から見ると学ランを着て
ゴミ拾いをしているように見えるので
「若いのに偉いのね〜」
なんて言われて学ランの高校は近くには
我が母校しかなかったので
学校のイメージアップ戦略にも
寄与していた形となっていました(笑)
しかし!
最初からことはうまくいきません。
空き缶が1時間やってよくて
20個くらいしか集まりませんでした。
このままだと携帯代が払えないので
どうしようかと悩みました。
その時に閃いたのが
「人にお願いすればいいや」
ってことでした。
この時から僕の今に通ずる
外注化技術は磨かれていたのです(笑)
生徒会の中で大人しめの
・風紀委員長
・美化委員長
にボランティア清掃をするぞ!
とボランティア精神のなんたるかを説き、
顧問の先生にも近隣への美化活動について
学校のアピールになるということで説得し
用務員さんから大量のゴミ袋をもらい
毎週毎週空き缶拾いをしていました(笑)
見事せどりで言うと
「仕入れ(空き缶)」
は半自動化できるようになりました。
問題はこの後でした・・・。
拾ってきた空き缶をリサイクル機械に入れて
10円にしていくんですが
出てくるお金は10円なので
10円が今までの人生で見たことがないくらい
積み上がります(笑)
10円玉は1gあり、
当時一回のリサイクル機械への投入は
300個くらいだったので
1g×300個=3kgの重さを
常に持ち歩くのは不可能でした。
しかも300枚の10円玉なんて
絶対に財布に入らないです・・・。
なので、両替は必須です。
先生にバレたら大変なことになるので
先生には相談出来ません。
そこで両替してくれる友達を探すべく
片っ端からお金持ちで良い人な友人に
お願いしまくりました。
両替行脚です(笑)
結果的に、お金持ちも多く
縦の関係も強い
・音楽部
が後輩も巻き込んで
両替をしてくれました(笑)
単純両替だと相手にメリットがないので
・50枚両替→50円バック
・100枚両替→100円バック
などのメニューを作り
相手にメリットを与えるように
サービスを設計しました(笑)
このプライドを捨てて乞食となり
泥水をすする覚悟で空き缶拾いをしたおかげで
携帯代を自分で払うことができ
1年間の生徒会活動も全うすることができました。
本当に今でも空き缶には感謝してます(笑)
高校3年生になってからは生徒会活動もないので
普通にバイトを再開して
携帯代を払っていました(笑)
そして無事に高校を卒業しました。
【大学生】
〜やっぱり貧乏だけど圧倒的な青春〜
親が中高大学一貫の学校を
中学受験させてくれたこともあり
エスカレーターでそのまま大学に進学できました。
まず、ずーーーーーっと男子校だったので
クラスというかキャンパスに
「女子」
がいることの新鮮さにひたすら
心がウキウキしてました。
入学式の偉い人のスピーチなど
全く耳には入ってこず、これから始まる
・恋愛
・コンパ
・サークル活動
・バイト生活
などの輝かしいキャンパスライフを
夢見てニヤニヤしていたのを記憶してます。
やはり大学ということもあり
地方から上京している人や苦学生なども多く
中高のお金持ちばかりではなかったので
僕の持ち前のお金持ちへのコンプレックスは
全く働きませんでした(笑)
入学当初は京都から上京していた
クラスメイトの家に入り浸り
酒を飲みながら堕落した大学生活を
3ヶ月くらい過ごしていました。
しかし、やっぱりなんか違うな〜
という気持ちが湧いてきて
全く知らない世界に飛び込んでみて
環境をガラっと変えて
何かにチャレンジしてみよう!
と思ったんです。
んで、何かやるにしても
何がいいんだろうなぁ〜って
悩んでいたときに高校時代に
僕の空き缶の10円をよく両替してくれていた友人が
「暇してるなら俺がいるサークル入りなよ」
と誘ってくれて、、、
「オーケストラサークル」
に入ることとなりました(笑)
80年も続く、由緒正しき
オーケストラサークルです。
アナログ楽器なんてリコーダーくらいしか
やったことない僕がいきなり
超難しそうな楽器を演奏するなんて無理だろ!
と思いましたが、、、、、、
案の定めっちゃ楽器は難しかったです(笑)
人生1あの時は一つのことに没頭して
努力して練習しましたね〜。
今までの人生で一番、濃かったのは
間違いなくこのサークル生活でした。
一生涯の友達や先輩、後輩、恩師、
そして200人以上もいる組織の中で
トップを務めてその際のマネジメントなど
めっちゃ勉強になったし
ここでの経験は財産でしかないです。
しかし!
そのサークル生活を書くと
ただでさえこんなに長いのに
ありえないくらの長さになるので
サークル生活は割愛しますね(笑)
※また機会のあるときにでも・・・。
大学時代にもお金の苦難は
僕の前に立ちはだかります。
それは「サークル活動資金」です。
オーケストラというと
みなさんどんなイメージですか?
・お金がかかりそう
って思った人いませんか?
その通りです!(笑)
お金がめっちゃかかります。
僕のいた大学のサークルは
まだそんなお金かからない方ですが
・演奏会場費用(年3回)
・練習会場費用
・楽器代
・楽器メンテナンス代
・楽器消耗品代
・合宿費用
・トレーナー費用
・度重なる各種飲み会費用
・その他諸活動費
などのお金がかかり
年間で約50万くらいは必要でした。
しかも!
個人・パート・セクション・全体の練習は
ランダムに昼〜夜まであるため
バイトをガッツリする時間がありませんでした。。
サークルの団員は基本的にやはり
お金持ちばかりでバイトをしなくても
親が援助してくれているので
何不自由なく練習に励んでいました。
家が貧乏で援助なんかしてもらえるわけない
僕からするとそりゃぁ、、、もう、、、
「なんなんだ・・・こいつらはっ!
なまぬるいクソおぼっちゃん&お嬢様めっ!
ぜってぇ、負けねーぞっ!」
とお得意のお金持ちコンプレックスを
剥き出しにして勝手に燃えていました。
今振り返ってみると
本当に僕はお金持ちがたくさんいる環境に
自ら飛び込み、勝手に反骨精神剥き出しで
それを原動力に頑張っていたなと思います(笑)
とは言っても楽器初心者で始めた僕は
他の人よりも倍は練習しなければならないため
「練習時間の確保」
は必須でした。
そのためにしたことは
・勉強の時間はほどほどに(本末転倒)
・バイトは時給が高く短い時間で稼げる仕事
です。
そもそも大学に入ったのは
就職をするためには必要だと思っただけなおkので
もともとやる気はないのでほどほどでOK。
問題はバイトでした。
効率よく稼げるバイトはないか!?
と当時のFrom Aをコンビニで買って
くまなく探した結果
・パチンコ屋
・交通量調査
をすることにしました。
パチンコ屋は夜番は,
最高時給1600円くらいにで
めちゃめちゃ時給が良かったですし
閉店後の新台入れ替えとかで
めっちゃ残業させてくれたので
とても効率よく稼げました。
でも仕事自体は超肉体労働でハードですし
幼少時代のトラウマの893の方もよく来店されていて
その対応で精神的にもきつかったです(笑)
思い出深いのは
両手の小指がないその893の方が
モーモーパラダイスという機種のパチンコで
大当たりしなさすぎてイライラしすぎて
ゴルフのアイアンを持って来店して
殴られそうになったことです(笑)
本当に怖かった・・・。。
警察もきて店内は騒然となりましたが
無事、その方は出禁になりました(笑)
もう一つの交通量調査は単純に
日払いで2万円のお仕事だったから選びました。
しかし・・・これが超絶辛かった・・・。
交通量調査ってのは
道路とかの脇道に座って
手元のカチカチするやつで車の車種を見て
数えるお仕事です。
辛かった点は
1.労働時間
2.無理ゲーすぎる車種カウント
労働時間については
楽器の練習時間を確保するために
しっかりと休みの日に
ドカッと入って即金で貰えた方がいいので
24時間労働で2万円日払いってのを
ずっとやってました・・・。
人数が多い時は3時間に1回くらいの
休憩があるのでいいのですが
欠員が出たりするとほぼ休憩なしで
24時間座りっぱなしでカチカチとカウントします。
最初はいいんですが
だんだん飽きてくるし
何よりも超絶に眠い・・・!
今考えると脅しなのかもしれませんが
しっかりと寝てないか社員が車で徘徊して
チェックしているからと言われたので
眠気と戦いながらカチカチしてました。
そしてだいたい僕は大田区の
工業地帯でやることが多かったのですが
休憩時間になっても周りになんにもないので
座るところもなくコンビニもなく
マジで地獄でした・・・。
でも眠いのでここでも乞食になり、
地面で普通に寝てました・・・。
もちろん寝心地は最悪ですが
慣れると普通に寝れるようになります。
そして24時間終了後に品川駅の港南口で
2万円を封筒で渡されるんですが
あまりにも疲れすぎているので
その2万円を握りしめて港南口にある
吉野家に駆け込み、、、
牛丼と瓶ビールで一人打ち上げをしてました(笑)
そのビールの美味いこと美味いこと。
五臓六腑に染み渡るとはこのことかっ!
と常に思っていました。
なんで労働後のビールって
あんなに美味しいんでしょうね(笑)
ってな感じで効率よく少ないバイト回数で
月に12万円くらい稼いでいました。
そんなこんなで青春を謳歌していて
サークルの幹部学年(3年生)が終わると
ついに就職活動が始まります。
この時期、就職活動と言ったら
大学の教授や支援センターみたいなとこの職員には
「やりたいこと見つけて
やりがいを感じる会社を選べ!」
的なことをよく言われたのですが
正直、今でもそうなんですが
これといって強くやりたいことってのが
当時もなかったんですよね。
しかし、自らの人生を削りながら
家計は火の車なのに私立に通わせてくれて
僕をここまで育ててくれた両親が
安心する形にはしたいと思っていました。
親が安心する形ってなんだろうって考えたら
わかりやすいくらい有名な大企業に勤めて
人生安泰に過ごしてほしいってことだったんですね。
(実際今は大企業=安泰ではない)
なので就活はとにかく
超有名大企業だけを受けていました。
業種もバラバラですし
やりたいこともないので
どうやったら通過して最終面接までいけるか?
ってのを日々考えていました。
その試行錯誤の中で
どの業界でもエントリーシートや
面接でもくぐり抜けるテクニックを
編み出しました。
もし就活に困っている学生がいれば
教えますので個別に連絡ください(笑)
そのテクニックを駆使して
15社くらい受けて3社内定をもらいました。
その中でも親が知っていそうで
親が親戚などの周りに自慢しやすい
一般の人でも知っている大企業に
入社することを決めました。
母親は泣いて喜んでました。
母親が軸にしていた
「お金はなくても教育にはお金かける」
という教育方針が母の中でも
大きく肯定されて安心したのではないかな
と今では思っています。
大企業に入ることが必ずしも
良いことだとは思いませんが
両親が今までの人生の中でかけてきた
・時間
・お金
などのコストに対して大企業に就職したことが
大きなリターンが返ってきた
と感じてくれているようで
僕もとても安心したし、
親孝行できたなと思いました。
これで大学生活編を終了します。
この先の激動の社会人編が
本当の人生の地獄でした・・・。
【社会人〜現在】
〜お金を手にして地獄へ急降下〜
ギリギリの単位ではありましたが
無事に大学を卒業し
超有名企業に就職することができました。
入社しての初給料。
銀行の残高をATMで見た際に
今まで手にしたことのない大金が
入社して研修しかしてないのに
振り込まれているのでとてもビックリしました!
そのときは工場実習で明石にいたんですが
初任給の一部は親に振り込む!と決めていたので
早速、最寄りの銀行から10万円を振り込みました。
がしかし!!!
なんと、振り込み先を間違えていて
全く知らない人に振り込んでしまいました(笑)
窓口がしまっていたので
速攻で銀行の問合せ先に電話して泣きながら
「なんとかしてくれ!」
と情けない声で懇願したのは良い思い出です(笑)
そんなこんなで研修を経て
最初は事務機器の購買部門に配属されました。
派遣さん含めて9割が女性の方でした。
まさに大奥・・・(笑)
人に対しての悪口、妬み、嫉み、恨みなど…
とてつもない女性社会が形成されていました。
その中でもなんとか可愛がられるように
立ち振る舞いました。
例えば、みなさん僕よりも一回り以上
年上の方々だったので
その年代の歌手の曲を調べて聞いて、
練習して歌えるようにしてました。
部署の飲み会での二次会は
必ずカラオケにいくので
そこで僕がそういう曲を歌うと
「若いのによくしってるね~!」
と言って褒めてくれるからです(笑)
因みにどうでもいいですが
その時の僕の十八番は
・ギャランドゥ/西城秀樹
・2億4千万の瞳/郷ひろみ
・離したくはない/T-BOLAN
・GLORIA/ZIGGY
・YAH YAH YAH/チャゲ&飛鳥
でした(笑)
仕事は順調にこなしていて
職場での人間関係もうまくいっていたのですが
問題だったのが・・・
「金銭面」
です。
もともと、貧乏人であった僕が社会人になり
急に大きな金額を手にしたので
散財!
散財!
散財!
散財!
散財!
散財の嵐でした・・・。
✅子供の頃にお金がなくて買えなかった
ゲームソフト・ゲーム機を
買いまくったり
✅友人と飲みに行ったり
✅合コンにいきまくって無理して
おごりまくったり
✅コミックを大人買いしまくったり
✅学生の頃やりたくても出来なかった
トレーディングカード(MTG)を
大人買いしまくったり…etc
あげればキリがないほど
幼少期~学生までで
お金がないことで
押さえつけられていた欲求が
大爆発して散財しまくってました。
当然貯金は0円。
あげくのはてには現金がないので
クレジットカードを作りそのカードで散財…
入社2年目の頃には
給料入る
↓↓↓
クレカ支払に消える
↓↓↓
無理矢理飲み会開いてクレカで支払って
参加者から集めたお金で現金作る
↓↓↓
給料入る
↓↓↓
クレカ支払に消える
↓↓↓
無理矢理飲み会開いてクレカで支払って
参加者から集めたお金で現金作る
↓↓↓
以下、無限ループ…
といった感じで常に自転車操業でした。
しまいにはクレカ支払ができなくなり
当時、何もわかっていない僕は
支払額が毎月平準化される
「リボ払い」
をしまくっていました・・・。
リボの恐ろしさを知らずに・・・。
そしてそんな自転車操業で
暮らしていた僕のもとに
またもや衝撃的な出来事が起きます。
それは・・・
「兄が再度大病を患う」
という出来事です。
幼少期に癌になり奇跡的に復活し
元気に暮らしていた兄に
またもや病が襲い掛かってきました。
この病気は間質性肺炎という病で
簡単に言うと肺がどんどん小さくなり
いずれは呼吸が出来なくなってしまう病気です。
有名人で言えば美空ひばりさんが
同じ病気で亡くなっています。
原因は不明で現在でも治療薬は存在せず
国の指定難病にもなっている
とても発症する可能性が低い病気だそうです。
その知らせを聞いた瞬間に頭が真っ白になりました。
もちろん家族はどよーんとした
とても暗い空気。
僕が当時思ったことは
「なんで癌が治った兄が
こんな大病にかかってしまうんだ!
神もクソもいない世の中だ!
てか、兄のようにしっかり働いて
世の中に貢献している人が
こんなにも不運でいいのか。
何もしていないクソニートや犯罪者が
病気にならずになぜ俺の兄なのか・・・!」
と悔しくてやりきれない気持ちでいっぱいでした。
治す方法はたった一つ。
肺の移植のみです。
ただ、そんなに都合よく
ドナーが見つかるわけもなく
しかも順番待ちなので
いつ兄の番が回って来るかもわからず
絶望状態でした。
ドナーが見つかるまで
兄が生き続けられるかの
命をかけた病とのデスマッチ。
そんな中でも兄は希望を捨てず
会社に通いながら難しい資格を取ったりして
治った将来に備えて自己研鑽に励んでいました。
しかし、病はドンドン兄の身体をむしばみ
呼吸ができなくなっていき
常時、酸素ボンベをつけながらの生活となりました。
毎日顔を合わせるのですが
刻々とよわっていく兄を見ていると
幼少期の癌のときのよわっていく兄と
クロスオーバーしてとても辛かったです。
幸いにも僕は生まれてから
大きな病にかかったこともない丈夫な身体でした。
同じ遺伝子で生まれた兄弟なのに
なぜ兄だけこんなにも辛い想いを
しなければならないのか。
と自分を知らないうちに攻めていて
ストレスからなのか僕自身も謎に呼吸が浅くなり、
上手く呼吸ができなくなる時期がありました。
そんな中、僕の大学時代のサークルの
大変お世話になっていたトレーナーが
兄と同じ病にかかっていたことがわかり
病気発覚から数か月でこの世を去りました。
身近な人が家族と同じ病気で亡くなり
「想像したくない死」
が僕の頭の中を駆け巡りました。
その後、兄は様々な肺の病気を併発し
何度も入退院を繰り返しました。
そのたびに母が毎日つきっきりで
お見舞いにいって看護していました。
あとでわかったことですが
実は兄の癌が完治した際に
お医者さんからは
「治りはしたが余命は12年」
と言われていたそうです。
そしてその12年が経過し
何もなく安心した13年後に
この病気が発覚したので
母のこの時の壮絶な気持ちは
筆舌につくしがたいものであったでしょう。
時が経てども経てどもドナーは見つからず
残酷にも時は過ぎていきます。
次第に兄もドナーが見つからない状況から
「俺が死んだら親父と母ちゃんは頼む」
とか言ってくるようになり
どんどん弱気になっていきました。
その中でどうにも出来ない僕は
ストレス発散とばかりに散財を重ねました。
相変わらずリボが増えていくばかりです。
そんな最悪な空気感が約2年続いたある日!
いきなり自宅に1本の電話がかかってきました。
「兄のドナーが見つかったので
移植するかの判断をすぐに行い、
24時間以内に移植を行わないといけないので
実施するのであれば東北病院に来てください」
という内容です。
ドナーが見つかった際には
24時間以内に手術をしなければならないため
即断即決で準備して指定された
手術ができる病院に行かなければなりません。
すぐに準備して新幹線に乗るべく
上野駅にむかうのですが
駅までは車で行けるのですが
そこからは歩きなので肺が小さくなっていて
心肺機能が異常に落ちている兄には
新幹線乗り場までの数百メートルが
とても辛いものでした。
肩を貸しながらなんとか
新幹線ホームまで見送り
その後は僕は仕事があったので母に託しました。
その後、18時間にも及ぶ大手術を終え
無事、肺の移植が完了しました。
しかしその後はもっと大変です。
肺を身体に馴染ませるために
ICUで開胸したまま数日過ごします。
兄はその間麻酔で目を覚ましませんが
その状態は麻薬をやっている人と
同じ状態であるため様々な幻覚を見るようです。
謎に天井いっぱいにゴキブリが埋め尽くされていたり
兄はエンジニアなのですが
謎に任〇堂の開発ルームの隅っこに一人で
座って絶望感に打ちひしがれていたり・・・
様々な幻覚と悪夢を見たようです。
そして無事に術後の経過もよく
なんとか意識を取り戻しました。
家族全員安堵しましたし
なんだか長い間胸の中にこびりついていた
シコリみたいなのがポロっととれて
ホッとしたことを今でも覚えています。
しかし、またここでもお金の問題が
降りかかってきました。
母がつきっきりで毎日お見舞いにいくのに
病院が仙台にあるため滞在資金がないとのこと。
電話で相談されたものの
僕は先述した通り、常にカードで自転車操業状態。
でも親父も出せるお金が全然なくて
なんとかしなければと思いました。
そこで会社の労働組合に相談をすれば
お金を安い金利で借りれると聞いたので即相談。
結果、50万円借りることができたので
その50万円を母親に振り込みました。
「あんたこんなお金どうしたの?」
と不思議がってましたが
自転車操業状態&借金なんて
言えるわけなかったので
ボーナスをたまたまつかってなかった
と言ってごまかしました(笑)
この時点で僕の借金は
・リボ払い:約50万円
・組合からの借金:約50万円
・奨学金:約200万円
合計:約300万円ほどでした。
「この借金をどうにかせねば・・・」
と思っていた矢先に
会社の業績が傾き配置転換となり
コーポレート部門→営業
へと異動になりました。
この異動で僕は心を病みます。
当時、急に異動となったわけですが
コーポレート部門であった僕は
営業になったのに会社の製品やサービスについて
全く知識がなかったんですね。
当然、勉強して知識を詰め込んだんですが
IT業界という横文字が溢れまくる
ファンタスティックな世界では
一朝一夕での習得は厳しかったのです。
それに加えて史上最悪のパワハラが横行する
クソみたいな部署でした。
今の時代あるのか?って疑うほど
・罵倒
・暴力
・人間性否定
・共産主義のような恐怖政治
・助け合う雰囲気ゼロ
な感じで酷いものでした。
僕はこの状況であまりにも耐えられず
会社にいくと心臓の動悸が止まらない
という状態になり、
心療内科に行ったら
「うつ病一歩手前です。会社休んでください。」
と言われ異動後4ヶ月で
会社を休むこととなりました。
返さなければならない借金もあったため
給料をちゃんと得るために
2週間ちょっとで無理矢理復活したのですが
本調子で働くことはできず
なんか中途半端な状態で
ズルズルと仕事をしていました。
そんな
・メンタルボロボロ
・経済的にもボロボロ
なときに出会ったのが
「せどり」
でした。
この出会いが僕の人生を変えたことは
間違いありません。
ある日、たまたま会社の同期が
飲みに誘ってくれました。
1時間くらい飲むと
急にスマホの画面を見せてきたんです。
「ほら、これ、すごくない?」
そう、見せてきたのは
セラーセントラルの売上の画面でした。
そこには1週間で売上100万以上の数字が・・・!
そのとき僕は
「すげー!なにこれ!」
って興味津々になり
根掘り葉掘り聞くと
同期がやっていたのは
せどりというものだと教えてもらいました。
たくさんの借金を抱えていた僕は速攻で
「俺もやりたい!教えて!」
と言ったらその同期が入っている
せどりスクールに勧誘されました(笑)
もう熱くなって超絶前のめりな僕は
速攻で決済をしてせどりスクールに入塾。
そのスクールは4ヵ月で35万くらいで
結構期間は短いけど高い値段でしたね。
入塾してからその同期から
「せどりには資金が必要だから
カードローンでお金用意した方がいいよ!」
と言われて速攻で銀行で
カードローンを300万で契約(笑)
更に借金+300万・・・!
今思えば金利の高いカードローンでなく
しっかりと融資をひっぱれば
よかったなぁって思ってます。
良い勉強でしたね・・・!
そしてすぐにAmazonの大口契約等をして
せどりをスタートしました!
当時のそのスクールでは
ヤフオク仕入れを推奨していたので
ヤフオク仕入れ→Amazon販売を実施。
納品とかが簡単な新品を中心に見ていて
すぐに利益が取れる新品が見つかりました。
それは
「カメラレンズ」
です。
ヤフオクで即決で仕入れて
Amazonで販売をしていました。
みるみるうちに売れていくので
楽しくなり、超前のめりになって
ドンドン新品カメラレンズを仕入れました。
しかし・・・ここで悪魔からのメールが・・・。
そう
Amazonアカウントスペシャリストです。
いきなりアカウントが一時停止になりました(笑)
内容は
「あなた、コンディションのルール
ちゃんと守ってないから
一旦、アカウント止めるわ。
開始してほしければ改善計画書出して。
再開するかはそれみて判断するわ。」
でした。
当時、勝手に
「ヤフオクの新品=Amazonの新品」
と思っていた僕は
どんどんカメラレンズを仕入れていたんですが
確かに未使用ではあったのですが
保証書や化粧箱がないものも
販売しておりました・・・(無知って怖い)
当時のコンディションガイドラインだと
未使用でも箱や保証書がないものは
「中古-可」
で販売しなくてはいけなくて
なんとかアカウント再開はしたものの
仕入れていた在庫全てが
「新品でなく中古-可」
で売らなくてはいけないことに・・・。
コンディションガイドラインを無視して
販売する勇気なんてあるわけなく
しっかりと中古-可で販売しました。
カメラレンズというのは
基本的に単価がめちゃめちゃ高いので
仕入れていた在庫も非常に多く
僕はせどり開始1ヶ月目で
約200万くらいを溶かしてしまいました・・・。
この時は茫然自失状態でしたが
売らないとお金は回らないので
更にカードローン200万を契約し
何も考えずに売りまくりました・・・!
せどり開始2ヶ月目にも事件が起こります。
その時に塾ではプレミア価格になっている
商品を楽天とかから仕入れよう!
みたいなのが流行っていて
僕はDVD-BOXを中心にリサーチしてました。
その中で見つけたのが
「LUPIN THE BOX -TV&the Movie- [DVD]」
という商品です。
ルパンのDVD-BOXですね。
利益出る商品が見つかって
ウキウキしながら出品したんですが
全然売れなかったんです。
その際の出品価格は
¥119,000
でした。
売れないので価格調整をして
¥117,000
にしたら即売れしたので
やったー!
価格調整のセンスあるな~俺!
とか思って喜んでいました。
がしかし・・・!
セラーセントラルにいって
販売価格を確認してみると
¥11,700
でした・・・。
そう。
価格調整を一桁ミスってたんです・・・。
購入者に速攻でメッセージをしましたが
無視されて返品されず・・・。
なくなく諦めました。
利益額約マイナス8万円
でした・・・。
怪盗ルパンは僕の利益まで盗んでいきました・・・。
これを僕のせどり歴史上
「怪盗ルパン事件」
と呼んでいます・・・。
そんな大きな失敗をたくさんしてきたので
せどり開始三ヶ月目には
「粗利25万達成」
しました!
コツさえ掴めばモノレートを見て
売れるものだけ仕入れれば良いだけなので
あとは行動量を増やしまくればいいだけだ!
と思い、せどりスクール最終月の
4ヶ月目は全てをせどりに捧げました。
・早起きしてせどり
・通勤時間もせどり
・昼休みもせどり
・本業後も帰って深夜2時までせどり
しっかり売れて利益が出るので
とても楽しく、全然辛くありませんでした。
その結果、、、
せどり開始4ヵ月目で
「粗利77万」
という数字を達成しました!
そのスクールの中では第4位でした。
1位:粗利103万
2位:粗利92万
3位:粗利88万
でした。
全員0からせどりを始めた初心者です。
せどりの再現性が高いことが
本当にこの結果からわかりましたし
ノウハウは大したことは教えてもらってなくて
ひたすらマインドを教えてもらったので
せどりはノウハウでなくマインドだな
っと今でも思っています。
その後、稼げるようになり
超天狗&勘違いクソ野郎だった僕は
・不動産投資
・積立型の海外保険
・高級時計の購入
に手を出します。
このことが後に惨劇を生み出します・・・。
今、振り返ってもこの時の
調子乗っていた僕を全力で殴りたいです。
不動産投資で
約3,000万の不動産ローンを作り
積立型の保険では毎月2,000USドルの積立。
(2,000ドル=約20万円)
そして海外にせどり仲間と旅行に行き
約100万円する高級時計を購入・・・。
それに加えて家賃12万円もする
マンションに引っ越し。
(初期費用は約100万)
今考えても頭おかしいくらいに
調子に乗って散財しまくりでした。
そうしているとせどりも競合が増えてきて
ある月を境に、
クレカの支払がきつくなってきました。
そしてそれを回避するために
銀行から融資を1,000万引っ張りました。
しかし、、、
数か月でまたクレカ支払がきつくなる・・・。
おかしいな?
なんでだろ?
カード不正利用されてるのか?
とか思っていました。
ある日、当時入っていたスクールの先輩が
店舗仕入れに誘ってくれたので
その際にこのキャッシュフローが
回っていない状況を相談しました。
そしたらすぐに店舗仕入れを中断して
「らーめん!それはヤバイ!
ちょっとすぐに俺の家に来い!」
と言ってくれて
なぜキャッシュフローが回ってないかを
深夜まで付き合って分析してくれました。
結果、僕がキャッシュフローが回ってないのは
わかりやすく単純に言うと
「粗利<固定費」
という状態だったのです。
シンプルに資金管理ができてない
クソ野郎でした。
そのわりにその当時は300-400万くらいで
月商も高いので資金管理が出来ていないことの
インパクトがすさまじかったのです。
この結果を見た時に
一気に血の気が冷めました。
そして変な汗も出てきました。
学生時代から今までは
なんとかバイトとか空き缶の換金で
マイナスになってもリカバリー出来てましたが
せどりは月商も高く給料とかでは
リカバリーできていない額になっていました。
と言っても誰も数百万単位の
お金を貸してくれるわけもないし
粗利で数百万なんて次の月から稼げるわけもない。
リカバリーできない厳しい現実と
馬鹿な自分に対して
本当に情けなくて情けなくて
その先輩の家で泣いてしまいました。。
その時の先輩には今でも感謝してます。
あの日が無ければ僕は知らないうちに
もっと地獄の赤字沼にはまっていって
取り返しのつかない状態になっていたので。
小〇さん!
本当にあの時はありがとうございました!
その後、先輩の家から歩きで帰宅したのですが
あまりにも頭が真っ白になりすぎて
帰った記憶が今でもありません。
その日も眠れず寝ないまま出社。
その当時、僕には新人の部下がいたのですが
先輩として面倒を見なければならないのに
質問されても上の空でした。
今、その後輩に当時のことを聞いてみても
「らーめんさんあの時
ずっと上の空で意識がここにない感じでしたよ。
なんかうつ病患者みたいでした。」
と言われます。
それもそのはず。
僕の頭の中は四六時中
「お金のことで頭がいっぱい」
でした。
24時間ずっと
「次のカードの支払に間に合わせるには
Amazonの入金があるまで
いくら売らなきゃいけない。
売れなかったら損切でもいいから
ヤフオクで売らなければならない・・・」
って考えていたので
ずっとセラーセントラルのアプリを
立ち上げては更新してました。
それでもやはりクレカの支払には間に合わず
リボ払いにしまくっていました。
膨らむリボの金額。
リボの金額が200万くらいになり
リカバリーできない現実に
本当に頭がおかしくなりました。
それでも売上を上げなければならないので
常に支払に追われているプレッシャー。
そして売るために値下げをするので
どんどん月商だけ上がって
利益率はどんどん悪くなる。
利益が減っているなら
「支出を減らすしかない」
と考えるようになる食費を削りました。
せどらー御用達の
ひかりTVショッピングで
ポイントがたまっていたので
そのポイントでUFOと俺の塩という
カップ焼きそばを大量注文しました。
食事は1日1食でそのカップ焼きそばのみ。
朝は5時におきて出社まで
ヤフオクの入札。
帰宅後は深夜2時まで
納品・リサーチなどのせどり作業。
こんな生活を1か月も続けていたら
デブな僕が1ヶ月で9kgも痩せました・・・。
誰にも相談できず
本当に辛くて・・・枕を濡らした夜もあります。
しかし、こんな生活が続けられるわけもなく
それでも粗利<固定費の赤字は続くので
もっと生活費を削らなければ・・・と思いました。
様々なプライドや執着をすべて捨てなければ
本当に僕はここで死ぬな・・・と強く思い
「超断捨離」
を決断します。
様々な収支シミュレーションをしました。
結果、まずは違約金がかかっても
いいので家賃の高いマンションを出ることに。
そして実家に帰ることにしました。
家賃の高いマンションに引っ越して
無駄に高い家電・家具を買って
周りの友人に自慢気に話をしていましたが
そんな恥も外聞も捨てて
地元の友人に頭を下げて引っ越し費用を
少しでもおさえるために手伝ってもらいました。
実家の両親には意気揚々と家を出て行ったので
嫌でしたが素直に
「副業失敗したからやり直したい。
暫く実家に戻らせてほしい。」
と頭を下げて許しを得ました。
諸々の違約金などは
今まで培ったせどりスキルで
ヤフオクで家電・家具を売りまくり
なんとか捻出できました。
その次にメスを入れたのが
積立型の海外保険です。
これは毎月2,000USドル(約20万)が
無くなっていくので速やかに
メスを入れるべき対象でした。
しかしこの積立は2年間積立をしないと
積立額を変更できない商品でした。
そのため、途中で解約すると
積み立てたお金は全く戻ってきません。
その時点での積立実績は
1年6ヶ月=36,000USドル
(約360万円)
なのでこの時点で解約すると
約360万円をドブに捨てることになります。
あと半年頑張れば
積立額を小さくしてなんとか縮小できる・・・!
その選択肢もあり非常に迷いました。
本当に眠れないくらい迷いました。
が!
ここで毎月の出血を今止めないとまずい!
このままズルズルと行ったら
更に赤字地獄にハマっていくだろう。
と決意し解約することにしました。
もちろん紹介してくれた人や
その保険の代理店からは止めれましたが
断固として解約の意思を貫き出血を止めました。
更に、やり直すために
リボの金額も借り換えみたいな感じで
利率の低いところにリボ払いを寄せて
100万ほどリボにしました。
こうでもしないと一度白紙にして
やり直せないと思ったので。
その後、せどりしか稼ぎ方を知らない僕は
今の利益率低い自転車操業的なせどりを
改善するためにネットで情報を集めだしました。
改善すべきは安定した売上と
高い利益率を出すこと。
その時に出会ったのが
「食品せどり」
でした。
そこで僕は情報発信の師匠に出会うことになります。
当時、食品せどりの第一人者だった師匠。
ブログの内容も充実したので
速攻で問合せフォームから
「コンサル受けたいです!」
とメッセージを送りしました。
借金を抱えながらも
自己投資しなきゃ現状は変わらない
ってのは意識していました。
するとすぐに連絡がきて電話をすることに。
そしてコンサルの内容を聞いて
金額も聞いて即決即断。
コンサルを受けることで
今までやったことのない
食品やヘルビ系のせどり知識がつきました。
そんなある日
師匠が飲み会を開いて懇親会やるって
連絡がきたので東京は日程合わず
飲み会のために大阪まで行きました。
コンサルは全てオンラインだったので
その時に始めて師匠に出会いました。
アバター通りの誠実そうな方でした。
あとは・・・
お金持ってそう!
と思いました(笑)
その懇親会で自分の現状を話して
相談をしたところ
「らーめんさん情報発信やったらどうですか?」
と提案いただきその場で即決即断。
僕は情報発信を学ぶために
当時有名だった某情報発信塾に
30万円払って入塾をしました。
正直、本当に情報発信で稼げるかどうか
不安でしたが、自己投資を決意。
そして情報発信について
師匠がとても手厚く面倒を見てくれました。
しかし!
それとは裏腹に出来の悪い弟子の僕は
すぐに稼ぐことも出来ず
入塾半年で得た収入は
「約2万円程度」
でした・・・。
30万円払って2万円とか・・・
マジで終わってるな俺・・・。
と思ってました。
周りの同期は数百万の利益を報告していて
とてもうらやましかったです。
僕は専業でなく、副業なので
時間的な制約は専業の方よりあるのは事実です。
ただ、それを言い訳だけにはしたくなかった。
そうすると逃げ道を作って
絶対にやらなくなるってわかっていました。
案の定、副業勢の同期は
情報発信をやめていきました。
せどりでも一緒だなと思っていたのは
「継続していれば必ず稼げる」
ということです。
せどりよりも特に成果が出るのが遅い
情報発信は尚更そうだなと思っていました。
だからこそ毎日何でもいいので
コツコツと地道に継続しました。
しかし、なかなか成果がでません。
周りは華々しい成果をあげていくのに
僕だけ取り残されている感じが
とても辛かったのを記憶しています。
それでも読者さんとの
コミュニケーションは続けていました。
そうすると
読者さんの悩みや課題
そして読者層が次第と
わかってくるようになりました。
ビジネスの基本は
「悩み解決で価値提供をしてお金を頂く」
だと思っていたので
その読者さんとのコミュニケーションで得た
読者さんの悩みを解決する方法を考えました。
そしてボンヤリとですが
ビジネスの形が頭の中で出てきたので
その当時、親交のあった情報発信者の
「たんどころさん」
を僕の職場近くのカフェに呼んで説明して
「一緒にやりません?」
と打診。
快くOKをしてもらえて、
その後は打合せを重ねて
ドンドンそのビジネスを具体化していきました。
しかし!
その中で読者さんの悩みを解決するための
ピースが僕とたんどころさんでは
一つ足らないことがわかってきます。
なのでもう一人誰か
このピースを埋められる人がいないかなぁと
ひたすら人探しをしていた時に出会ったのが
「えんまんさん」
です。
えんまんさんは僕と同じ情報発信塾に
たんどころさんを師匠として入塾してきました。
えんまんさんの手法は
僕たちが描いていたビジネスプランを
実現するため最後の1ピースにピッタリだったため
速攻で声をかけました。
えんまんさんも快くOKしてくれました。
この時に今でも続いている
「たんめんまん」
が結成されたのです。
正直、この情報発信業界で
トリオで組んでて1年以上続いているのは
見たことがありません。
だいたいお金でもめて解散してます(笑)
我々が約2年も活動を続けているのは
もちろん僕以外のお二人の素晴らしい
人間性によるものがデカいですがそれよりも
「お金中心に考えず人を大事にする」
という価値観を常に軸として
持ち続けているからです。
先に自分たちが損をすることで
あとで大きなリターンが返ってくる
と常に信じています。
この価値観を大事にした結果、
大きな収益を生むこともできましたし
何よりも今では約200名の仲間がいます。
志をともにした同志です。
これからの課題は
この同志と共にどうやって
全員で稼ぐかってのを描いて
そして実行して結果を出していくか
ってことですね。
とまぁ、こんな感じで現在にいたります。
途中で情報発信に偏った話になりましたが
今でもしっかり物販は続けています。
物販やってないと人に教えられないので
【さいごに】
ここまで本当に長い長い自己紹介を
しっかり読んでくれてありがとうございます。
改めて幼少期から振り返ってみると
人生の節目節目でお金に振り回されてましたが
それをなんとか地べた這いつくばっても
乗り越えることで成長してきたんだな
と思います。
逆に諦めてそこで行動を止めたら
本当に僕は死んでいたと思います(笑)
諦めずに行動してきて本当に良かった。
これからは同志の仲間と稼ぎながらも
それ以上に迷惑や心配をかけた
両親に対してしっかりと親孝行を
していきたいと思います。
みなさんも親孝行はしっかりと
やりましょうね・・・!
どんな親であろうと
両親が1回でも人生の中で
異なる選択をしていたら
「あなたという存在はこの世にない」
からです。
なのでご自身の誕生日くらいは
「産んでくれてありがとう!」
と伝えましょう!
僕も超恥ずかしくて嫌ですけど
毎年それは伝えているので!
改めて、ここまで自己紹介を読んで頂き
ありがとうございました!
僕の経験があなたの人生の一助になれば幸いです。